「褒めない・叱らない・教えない」?!?!

中学で初めての英語の授業。
宿題を提出するときに
自分の列の全員分が揃ったら、
先生が素敵なシールをくれた。
それを教科書ニューホライズンの裏表紙に
貼って貯めていくのが嬉しくて嬉しくて
クラスメイトだけでなく、
同じ先生の受け持つ他のクラスの子とも
競い合って貯めていたのを
今でも鮮明に覚えています。

私が英語の先生になったのは、
今でもお世話になっている
その大先生の影響が100%。

あのシールの達成感は、
自分が宿題をしてきたご褒美というより、
同じ列全員が同じ気持ちでいるという
連帯責任と、チームワークのような
そんな気持ちが働いていたんだな、と
今思い返しています。
自分だって忘れ得るから、
列の一人が忘れた時は、
残念な気持ちにはなるけれど、
決して責めたりはしない、
そんな空気がありました。

さて本題。
モンテッソーリ教育では、表題の通り
「褒めない・叱らない・教えない」
が大きな特徴。
ちょっと冷たく聞こえますか?

これは、従来の一斉指導に見られる
一般的な意味で、です。

子どもが作った作品を見て
「とっても上手ね」と言う代わりに
「どこをどう工夫していたのか」
という事実を言葉にして伝えています。

叱る時も、
「ダメでしょ!」「いい加減にしなさい」
って、どうダメなのかどう加減するのやら。
「どうしてその行為に至ったか」を言葉にし、
「どうしてそうしないほうがいいのか」
を客観的に伝えます。

子どもたちが明日から、
一人でできるようになるために
やり方をゆっくり、示して見せ、
元に戻して子どもにも促し、
見せ方が適切だったかを見る。
「教える」というより、
教師自身への「フィードバック」。

モンテッソーリ教師は、
日本語では「教師」と訳されてしまったけれど
もともとは、
Teacherではなく
Director / Direstress
「導き手」と呼ばれます。

カーサ・デ・バンビーニが始まって2ヶ月。
子どもたちは、4月当初、
シール帳にシールが貼れたら、
トイレでパンツが下ろせたら、
片付けができたら、
“Good Job” “Well done”
などの「褒め言葉」を待っていたよう。

最近めっきりそれらを口にすることは無くなりました。
それは、子どもたちの日課の中に
自分でできるんだから、
自分でして当然。
という意識に転換されたからのようです。

先生のためにしてるんじゃない。
褒められるためにしてるんじゃない。
自分の事を、自分でする。
できるって気持ち良い!
やればどんどんできるようになる!
お友だちも助けてあげられる!
という自信と、自己肯定感の塊。
自分の心身の発達を促してくれる先生への信頼感。

そうなると、
片付けも、トイレも、歯磨きも
ごくごく自然にできるようになる。
ご褒美シールや
ご褒美お菓子は
全く必要ありません。

「できた!できた!できたよ!!!!」
と室内の先生を見つけて駆け寄ってきたK君。
これまでどうしてもズボンのお尻部分が上げられなかったんだけど
自分で奇跡的に上げられた、成功!!

もうすぐできるようになるとわかっていた教師は
その時、自分一人で集中できるように
あえて着替えの場に一緒にはおらず、
そっと遠くから見守っていました。
K君が来た時に、
「何を、どんな風にしてできたのか、K君の気持ち」
を言葉にして伝えました。

巷には「褒めて伸ばせ!」的な育児法が溢れています。
「褒める」こと自体は悪いことではないと思うけど、

子供の観察を通して
「具体的な真実を細かに伝えてあげる」
ことが、実際の動作につながり、
達成感に伴う心の発達につながり、
語彙の増加にもつながる。
いいことだらけ!!!
でしょ?(^_-)

おしまい

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